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膝小僧360

Author:膝小僧360
座右の銘は「永遠の18歳」

105歳まで生涯現役でいます。。仕事においても遊びにおいても、あらゆる分野において若い者を若さで圧倒する、そんなアダルトチルドレンな105歳を目指しています。ただしこのまま計画通りいくと人生あと83年しかないのが悩み。

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妖艶に香る我が髪

TSUBAKI というシャンプー及びコンディショナーを購入した。

ずっとアジエンスを使っていたのだが、久々の浮気である。

やはり私は好奇心に突き動かされれば浮気からは逃れ得ない

ただのミーハーであると指摘された場合開きなおる覚悟はできている。


なにはともあれTSUBAKIにシフトしてしまった。
桜や梅、薔薇でなく、TSUBAKIという花の名を採用したのは斬新である。

いつもは夜9,10時あたりに温泉にはいるのだが、うきうきしてしまい
夕方5時にはいってしまった。

うきうきしていたので、今日は久々に温泉にジャンプダイビングではいった。

さて、これが、なかなか、ええやん、ええやん、


TSUBAKIええやん!!



ーーコンディショナーを洗い流しながら私は心の中で叫んでいた。ーー


隣で顔を洗っているゲンタと沖縄について会話していた内容もその瞬間ふっとばされた

アジエンスにも劣らず

自分の選択が間違っていないことに安堵した。


しかしさらなる驚きが私を待ち受けていようとはそのときの私には知るべくもなかった。

それは帰りの廊下を歩行中にやってきた。


我が髪より艶やかな香りが発せられていることに気づいたのだ。


そう、艶やかに香る、これこそTSUBAKIが狙っていたことなのだ。



お風呂上りの女性は美しい

そんなわけはない。


化粧がおちてしまっていると誰だか判別不可能なこともある。

しかし、その中で唯一の救いは、


シャンプーのいい香り


であることに異論を唱える男性はいないだろう。

これこそ女性にとってある意味最強の武器なのだ。

女性は、お風呂あがりにはできるだけはやくナチュラルメイクをした上で、シャンプーの香りで男をおとしに行くべきなのだ。

いったいいくらの男がだまされてきたことか。


問題はしかし、

「私がその香りを現在身にまとっていること」にある。

ある問いが私の頭をかけめぐった。

「俺は今Betterな状態なのだろうか、それともキモいといわれる状態なのだろうか」

松嶋奈々子の髪からTSUBAKIの香り、それは文句なく素晴らしいといえるだろう。

しかし、オタクっぽい人がTSUBAKIのいい香りを頭からガンガン発していたとして、それはかっこいいといえるのか?

たとえその髪から、動くたび艶溢れだしていたとしても。

さらに、TSUBAKIのキャッチフレーズは「日本の女性は美しい」である。


…………、ちょっとまって、男性は?

日本の男性は? いったいなにを暗示しようとしているのか?

そして「日本の女性」というのは「日本に滞在している外国籍女性」も含まれるのか?

私のGuessは「Yes」である。

中国にいる中国人女性より、タイにいるタイ女性よりも、

日本にいる中国人女性、日本にいるタイ女性のほうがかわいい/美しいのは自明である


話が飛んだが、私は現在髪から発せられているTSUBAKIの香りでなにをすればいいのか

もし私が、竹内結子似で、身長165センチ、体重48キロ、Cカップ、グラマラスな女子高生であり、なおかつ密かに握力70、背筋力200kg、スクワット200Kg、100メートル10秒台、剣術・射撃・格闘技そして茶道に精通している
まさにスーパー女子高生だとしたら

TSUBAKIのシャンプーの香りとタッグを組めば、修学旅行の一夜でクラスの男全員を虜にできるだろう。

その夜、クラスの男どもの話題には他の女子の話題ゼロというまさに独占女王様である。


しかし悲しいかな、私は男なのである。

髪の香りで女性を魅惑する男なぞ、日本では聞いたことが無い。

私は認めざるをえない。

シャンプーに負けている私の姿を。

髪を洗っているのではなく、洗われている自分の姿を。

シャンプーなのに私ごときの手に負えないというもどかしさが私を苦しめる。

シャンプーに対してコンプレックスを持たざるをえない自分を恥じたい。


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積極的な臨死体験

東京での就職活動を終えて帰別府した、ビール腹の朋友がこう言っていた。


「すごい人たちっていうのは、死にかけた経験を持っている」 と。


死 という圧倒的存在が目前に迫ったときに、自分の人生いったい何がしたいのか、悟ることがあるのだという。

一回死んだ身なので潔く自分を賭けることができる、とも。


本当かどうかは知らない。しかし非常に重要な示唆を含んでいるのは事実



「死」から逃げていない



私も一度高校時代に入院した時に、失明を覚悟した、もう野球はできない、とも思った。

少なくとも人生において大きな修正を迫られたことは認識していた。

しかしそれとて本当に死を覚悟した人に比べればちっぽけな覚悟である。


極論でいえば、 「一回死にかけてみればやりたい事がみつかる」 ということだ。

だから自分を、瀕死 の状況まで追い込めばいいのだ。

ただ私を含め、人間は自分で死にかけられるほど強くは無い。

ならばみんなでやればよい、互いを監視しあう。

しかし恐ろしいジレンマがある。

本当に死んでしまった場合どうするのか?


あと2秒で真理に到達できるのに、仲間が彼を助けることでそれを妨げてしまったら?

逆に止めないで本当に死んでしまったら?

私は責任の大きさにビビり、それから逃げるために、助けてしまうだろう。

中途半端にやっては意味が無い。なにも悟ることはできない。本気で自分の命を賭けてやらねば何も得られない。 

本当の意味で、リスクをとる覚悟があるか。
自己責任でそれをできるか。


死を覚悟している人間の生き様は美しい
私はまだまだ「死」についての考えが甘いようだ。

テレビも捨てたものではないかもしれない

基本的にテレビは見ない方針である。

見たとしても、野球と格闘技、そしてNHK以外はあまり見ない

今日ひさしぶりにぼーっと見てみた。

化粧品のCMが素晴らしかったので、それ見たさに見てしまったのである。


TSUBAKIのCMが飛び込んできた。
シャンプーなのになんとゴージャスなのか。現在の日本の「いい女」をよくもあれだけつぎこんだものだ。SMAPの歌もつけて、まったくバブリーなCMである。

確かに6人も同時起用すれば、幅広い層にアピールする。
任天堂のポケットモンスターのようなやりかただ。

男性としての私からみて、このCMは大歓迎である。


そしてMaquillageである。

蛯原友里、篠原涼子、伊東美咲、栗原千秋という4連発である。

やはり篠原涼子が群を抜いている。
私でさえ使ってみたいと思う。
いや本気ではないが、興味が無いといえば嘘になるだろう。

もし私が篠原涼子の唇にグロスを塗る仕事をしていたら、と思う。

MaquillageはCMもすばらしいものをつくった。
蛯原ゆりのウィンクは多くの世の男性陣を射た。

あのウインクとその後の視線 は  Excellent! の一言につきる。

私もウインクされてプールに飛び込みたい。
そのような火遊びなら大歓迎だ!とテレビの前でいったいいくらの男性が叫んでいるだろうか。



しかし悲しいかな、CMはCMである。

有名女優・アイドル・歌手とつきあえるチャンスなどおそらく99%の男性には訪れない。

空に浮かぶ月に手を伸ばすようなものだ。

それにそのような女性とつきあったからといってGoodという単純な問題ではない。

芸能人であれ、生身の人間なのだ。バービー人形ではない。

自分が女優とつきあったからといって、いったいその女優を幸せにできるのか?

あたたかく見守り応援していくことこそ、愛すればこその選択ではないだろうか。


なにはともあれ、資生堂は世の男性にとってある意味あこがれの会社である。
これからのCMにも是非期待したい。

夏ボディ。打倒新庄

最近、ちょっと体重が増加気味である。

いいもの全然食べていないのに体重増加である。

これはいけない。

50歳代のおっさんに、

「わしの腹は、接待でのふぐとか刺身とか超高級料理がつまっとるんや、この腹出るのに何千万円使ってるおもてんねや。そこらへんのガキがジャンクフードとかビールで太ってるんとはまったく次元が違うんやでぇ、がっはっはっは」

などといわれた日には、もっぱら炭水化物ばかりの食事の私は、豆鉄砲を喰らったハトのように、もう黙って屈辱に耐えるしかない。

その状態の時に親から電話がかかってきたとしたら、もうしわけなさに居留守を使うだろう。「ちゃんとごはん食べてるか?」と問われるのがこわいからだ。


Anyway,もうそろそろ夏がきている。私の大好きな「いまあいにいきます」(英語では Be with Youというタイトル名)の季節だ。

「誰も知らない~Nobody Knows」の季節でもある。

コンドミニアムの備え付けの25メートルプールにいつでも入れたシンガポール時代と違い、最近温泉でしか泳いだり、飛び込んだりする機会がない。

しかしやがて海やプールでそれができるようになる、アクティブな季節の到来である。

問題は最近の先進国においてしばしば問題にされる体重の増加である。

食費節約のために炭水化物中心の食をしていた私もそろそろ夏ボディに向けてシェイプアップをしなければならない。

方法が問題である。長期的にこつこつダイエットするなんてかっこわるい。

第一それではまったく遊び心がない。無茶をしなければならない。
将来的に、孫に

「おじいちゃんは昔ダイエットやりすぎて生死の境をさまよったんや。@@もダイエットやるときは徹底的にやるんやで」

と言えなければならない。とりあえず実現可能性が高いものを以下述べる。


1)一日のうち、8時間ほど自転車をこぎっぱなし。一週間ぶっつづけでやる。


大分から宮崎シーガイアあたりまで行って帰って来る。
有酸素運動をこれだけ続ければやせる。
注意しなければならないことは日焼けであり、
真夏の太陽に焼かれるわけにはいかない。
敬愛する鈴木その子並みの美白が欲しいのだ、冗談でなく。
アネッサ金(俗称、アネキン)ウォータープルーフかもしくは蛯原友里のアリーだろう。



2)断食。 


2日間ほど断食。 
この断食を何回か行えばやせるに違いない。
礼拝もセットで行えばより効果的。
摂取してよいのは水とアルコールのみ。
集団でお互いを監視するピリピリと殺気立った雰囲気で行うとなにかおこりそうで面白そうだ。



3)無人島にてサバイバル


A few daysほどやればやせるだろう。
体の防衛機能により脂肪が蓄積される恐れもあり。
本能を研ぎ澄ますこともできて一石二鳥である。
耳をすまして周囲の気配をさぐる、獲物を発見したときのアドレナリン放出量。
人はいつか野生に帰らねばならない。
自分の中に眠る狩猟本能を呼び覚ます。



幸い別府にはこのような遊びにつきあってくれる朋友がいる。


話題は変わるが、夏において恐ろしいのは「花火大会」である。

クリスマス一人で過ごすというほどのプレッシャーではないが、それでも脅威であることに違いはない。

今年は誰といくのか。男で群れをなして感涙にむせぶのも青春でいいだろう。

できれば避けたいところであるが。

カラマーゾフ万歳!

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読破した。

非常に暗い雰囲気で進む書である。
だが、その中にも一筋の光明が見える。
不正確な引用だが述べてみる。

「たとえ、これからの人生、苦しいことばかりで幸せにはなれないとしても、それでもやはり人生を愛しなさい」

「私達は将来悪い人間に変わり果てているかもしれない、人生なにもいいことがないかもしれない、しかし、今この瞬間に私達が集って素晴らしい感情を共有できたということが、いかに苦しいことだらけであっても、いつまでも一筋の光として私達を救ってくれるでしょう」

これだけだと、ベタな物語ととらえれてしまうかもしれない、自分自身の筆力の不足が情けない。


しかし、人生において「本当に素晴らしい出来事」というのはたった一回体験するだけでも十分なのかもしれない。

その思い出が一つだけ、一つだけあればいいのだと。

たとえこれからの人生が苦痛に満ちていて、達成感も充実感も連帯感も名誉も知識も財産もなにもえられない、ただ空疎で孤独で真っ暗であったとしても、「本当に素晴らしい出来事」を回想することで人間は救われることがありえるのだと。


理性でもって様々なことを分析することはできるだろうが、理性だけで解けないのが世界である。カントのようなことを言っているのかもしれないが、、

人間は、3次元の思考しか持たず、肉体的限界に縛られ、純粋な真理を知ることはできないのかもしれない。

ニュートンの定理が間違っていると、そしてアインシュタインの相対性理論こそが正しいとして、しかしそれは物体を限界地点まで高速運動させた場合においてであり、地球上においてはニュートンの定理でこと足りてしまうのである。

それに加えて世界は不条理なものである。

理性では理解できても、感情がそれを認めることを許さないことは数多い。

あなたが聖職者であるとする。
神に誓ってすべてのものを赦すと誓ったとする。
しかしある日、あなたの母親がある日突然誰かに陵辱され惨殺されたとする。
しばらくしてあなたの教会にそれを実行した男が告白しにあらわれた。
あなたは聖職者であり、彼を許さねばならないとする。
あなたはそれを、理屈ではわかったとしても、本当に許すことができるだろうか。
キリストであれば赦しただろうか。
しかしもしキリストがそれを赦したとして、
あなたはそれを認めることができるのか。

ああ、ダメだ。うまく描けない。まだ煮えきっていないようだ。また将来いつか考えることにしよう。

ロナルド・P・ドア氏の講演

先日大学で、ロナルド・p・ドア氏の講演を聞く機会があった。

ドア氏は80歳と高齢だが未だエネルギーに溢れている。

日本的経営を世界で最初に有名にした人として知られているなどと聞いたかもしれない。

とにかく日本のコーポーレートガバナンスにおいては第一人者であり、このような大物がAPUに来たということに少々驚いた。

印象に残ったのは、、、


1)日本企業は官僚組織に似ている。従業員も公務員

のように扱われる。


2)コーポーレートガバナンスでよく言われるのは、

「企業は誰のものか」ということだが、ドア氏は「会

社を誰のものにするか」 と言われた。


3)会社に、Corporate Paliamentをつくってはどうか。

おそらくCorporate Paliamentは、役員、株主、Board、

従業員、消費者、取引先などから構成されるだろう。


多くを語られたが、特に印象に残ったのが上の3つ。

Corporate Paliamentは革命的なアイデアだと共感する。


Stakeholders valueを高めれば、Shareholders valueが高まる

という意見があり、

Stakeholders とSharehodlersの利害は衝突するという意見

もある。



どちらもあてはまるが、最終的にはどちらが有効なのか。 

決められないので、Stakeholdersが集まって方針を決めましょう。というのがCorporate Paliamentなのだろう。

企業が官僚組織と似た構造を持つ日本であれば成功の可能性は高いはずだ。

Financial Times、50400yen/year、高い、しかし購読

清水の舞台から飛び降りる心地である。

大学4年生になり、1年生のころよりだいぶ懐が寒くなってきた。財布の紐はできるだけ引き締めている。
この週末だって、財布には1000円札が一枚のみ、よしのやの豚丼でさえ高額に感じているこのごろ。


その私が、新聞に50400円も使ってしまった。

しかも英語である。

Financial Timesを一年分。

途中で読まないようになったらいったいどうするのか。

日々積み重なるピンクの紙を見るたびに自分を嫌いになっていくだろう。




現在、日経新聞を購読(一ヶ月約3700円)しているが、最近これでは日本のことばかりでインターナショナルな出来事に疎くなってしまうことに危機感を抱いた。

日本語ばかり読んで、英語能力が低下してしまいそうだ。少なくとも伸びはしない

そして、英語の新聞を購読することに決めた。

候補は複数ある。

1)ウォールストリートジャーナル
          アメリカに行ったとき、たまに読んでいた。第一候補の筆頭である。

2)ファイナンシャルタイムス
          時々読む機会があるが、ウォールストリートジャーナルよりも英語がなんとなく読みにくい心地がしていた。英国発だからか。しかし情報の質、権威など、有力な第一候補群である。ピンクの紙を使っているのが特徴的な新聞。

3)ジャパンタイムス
          日本の新聞をそのまま英語に翻訳したような内容である。しかし日経を読んで、さらに同じような内容を英語で読むなど時間の無駄である。とりあえずの候補

4)インターナショナルヘラルドトリビューン
          朝日新聞と密接な関係を持つ英字新聞。ジャパンタイムスよりはいくらか国外の記事が多い。USAトゥディなどとかぶる。正統だがしかしビジネス関連の記事を重視する私にはフィットしない。

5)NIKKEI WEEKLY
          日経新聞が週末にだけ発行する英字新聞ダイジェスト版。いや、でも日経とかぶっているのでパス。それに週末だけじゃね、、、


結局ウォールストリートジャーナルとファイナンシャルタイムスの一騎打ち

しかし、問題は値段である。


ウォールストリートインターナショナルバージョン、アジア
はなんと

半年約54000円!!!!!

ぶっちゃけふつうに買うと一部500円するのでお買い得ですよ、とサイトでは謳っているが、

いや、高いですよ全然。


日経は半年22000円くらいである。

絶望にうちひしがれた私は ファイナンシヤルタイムスのサイトを見た。

ファイナンシャルタイムス、、、

半年52000円くらい!!!!

ウォールストリートジャーナルと変わらない、、、たった半年、、、

インターナショナルヘラルドトリビューンなどほかの英字新聞は日経新聞とほぼ同じ価格設定なので、ここは妥協するか、仕方ない。

と思っていた干からびた私の眼に飛び込んできたのが、



 Student discount



の文字。むさぼるようにクリックした私はそこでファイナンシャルタイムスの寛容さを知る。


学生割引なので期限は一年のみ限定。

一年 50400円!!!!



日経も一年購読すれば37000円くらいいっちゃうこの時代に、ファイナンシャルタイムスが一年50400円!!

それでもふと考えた。一週間くらい前の新聞にこういう記事があった。
どこかの哲学者の人が書いた記事である。


「大学に入った頃は4年後には、古今東西の名著を読破し、幾多のガールフレンドを抱

え、スポーツ万能で、英語がネイティブ並みにペラペラになる、という目標をたてた。

そしていきなり英字新聞を一年間分購読した。最初は時間がかかっても、やがて加速度

的に読むスピードがあがるはずだ。新聞が届いて最初の頃は読むのにとても苦労した。

しばらくすると未読の新聞が加速度的にたまっていった。何週間か後には新聞が届いた

瞬間にごみ箱に直行するようになった。英字新聞は一年間分もまえもっ

て購読するものではないことを反省した
。」(引用不正確)


もしかすると同じ間違いをおこすのではないか、という考えをどうしても頭をよぎる。

しかし、しかし、私の英語は、特にリーディングはそんなに悪くない、残るは気合のみ


50400円も使ってしまって実際もうにっちもさっちもいかない。

背水の陣。

失敗は絶対に許されない。一部、一部が私の生活から牛肉を奪い、私に鶏のムネ肉を強制するのだ。


あと10日もすれば最初のFinancial Timesが届くだろう。

絶対にもとをとらなければならない。読まなければならない。

自分を鼓舞しなければ。

しかし、ここでふと考えてみた。



夏休みにおじいちゃんの家に遊びに行ったとして、
もしおじいちゃんがランニングを着て庭を望みながら

Financial Timesを読んでいたとしたら、
それはかっこいいんじゃないだろうか。




将来の孫に、おじいちゃんとしてかっこいい背中を見せるためならば、Fianncial Timesなぞ敵ではないはずだ。

今までほぼ22年間生きてきて、口でならなんとでも言える、ということは知っている。

今日、注文したFiancial Timesが自虐ネタのもとになるのか、それとも脳みそにシナプスを増やすことになるのか、自分の能力に期待したい。


私が賭けるのは、お金だけではない、それは、自尊心

プライドだ。

失敗して自分のプライドを失うか、それとも強化するか。

これはある自分への投資というよりはギャンブルに近いのかもしれない。

ドッキリさせない携帯電話

携帯電話がいきなり鳴ったりするとビックリする。

というか、いきなりしか鳴らないのが携帯電話である。10秒後にメールが来るとか、予知できるほど私はエスパーしてない。

自分でも気づいているが、携帯電話が鳴ったとき、


「ビクッ」


としてしまう。寝ているネコがいきなり水をぶっかけられたときのような状態になる。

背後で突然ケイタイがなったときなど数分間は心拍数は乱れたままである。

家系的に心臓が危ないので、(私自身スポーツ心臓ースポーツ心臓は心臓の一回の強さみたいなのが普通の人の倍くらいある、中学生のとき友達のそれと全然違っていたのでビックリしたのである。「すごいやろ、スポーツ心臓やぞ俺」などと言っていたが、ただの強がりであり、内心「俺やっぱ早死するんやろうか」、とビビッていた。)、

できるだけ心臓に負荷をかけたくないのだが、このままいつまでもケイタイの着信音にびびらされてしまっては、105歳までとうてい生きられない


たかだか93歳くらいで、着信音にびっくり心停止してしまいそうだ。


そのリスクを減らすためには、

1)ケイタイを自分の背後におかない。

2)ケイタイを自分の近くにおかない。

3)ケイタイをロープで縛って海に沈める


という解決策があるだろうが、私だって人間である。

自分でどうにかするよりも、製造元にどうにかしてほしい。 

いちいちこんなことに自分の時間・手間を使うのが馬鹿らしい、
というかめんどくさいのである。

こういうのはどうだろう。

1)着信があると、ケイタイに突如として足が生えて歩いてくる。そして、やさく私の肩を叩いて
    「お時間とらせてしまい申し訳ありません。ただ今おメールが届きました。い     かがなされますか?」 と言ってくれる。

2)僕の予定を知っていて、勝手に出席の可否を返信してくれたりする。

3)着信があると、「フシュゥゥゥー」、とじょじょにいい香りの霧を噴出して、そこはかとない匂いで知らせてくれる。

4)着信があるとコーヒーや紅茶などを淹れはじめ、できたらこっちにやってる。

5)着信があると、じょじょに光りはじめる。最終的には60W電球一つほどの明    るさになる。500円出せばオプションでディスコライトバージョンも選べる


6) あらかじめ鳴る3秒前に、「いくぞーー!、1、2、3、プルルルルー」と     知らせてくれる


はやくソフトバンクモバイルくらいが発売してくれないものだろうか。

ビックリさせないケイタイ、高齢化時代になくてはならないもの、

それを開発することこそ、CSR を果たすということ。犠牲者が増える前に。。。

Is Japanese blogging too much?

In the blogosophere, Japanese is the leading blogger in the world.

In March 2006.

37% of post has done by Japanese.

Surprisingly, English is the second, 31%.

China--15%


The data is from Technocraty.
http://www.sifry.com/alerts/archives/000433.html


This fact must be surprising to those who believes English is the very global language.

Even Japanese must be surprised.

But why? why there's so many posting to blog by Japanese?

Because Japanese can post it from mobile phone?

or

Because Japanese loves reading and writing? Japan has been kept world highest literacy for centuries.

or

Because Japanese loves Social Networking Services, such as Mixi, Gree etc...?

or
Japanese has very much enough free time for blogging?


Some says even in YOUTUBE.COM.  half of user is already Japanese.

What is happening to Japan? please tell me!!!!

Are we such a crazy about internet?

5月14日阪神VSソフトバンク、敗戦。

絶対に負けられない闘いがそこにある。


阪神 対 ソフトバンク 

@YAHOOドーム、

5月14日

母の日、13時試合開始




交流戦がなければ別府の大学に通う私が、福岡YAHOOドームに観戦にいくということはなかっただろう。

無論ソフトバンクといえば、2003年の日本シリーズで敗北を喫した因縁の(宿命の)チームであり、阪神ファンが抱える感情は穏やかではない。


ここで、当時2003年を回想してみたい

当時私は大学に入りたてのフレッシュバリバリ(今でもそうである)な一回生だった。しかし大学が九州内であることが災いしてか非常に福岡ダイエーファンが多かった。

関西で生まれ育った私はこの世に阪神ファンと巨人ファン以外の人間がいるのだ、ということを知って驚いていた記憶がある。

私の大学に一番多いのは福岡からの人々。そして関西の人間も日本人全体の3割を占めるくらいと割と多かった。大学の阪神 及び ダイエーファンは日本シリーズに沸き立っていた。

いつも仲いい友達でも、そいつがダイエーファンであれば試合観戦中は敵である。若者にありがちな「勝ったらなになに」 というささやかな賭け事もした。金銭をかけるのではない、自分を賭けるのである。

結局阪神は王ダイエーに敗れた。

私の部屋には福岡人などが無理やり押し入り大声でホークスの歌を歌われてしまった。風船なども放り込まれ恥辱にまみれた。近所の住民から文句を言われたのもなぜか私だった。

敗者である私には彼らのテンションに太刀打ちできるほどの頭の回転も、気力もなくただ、ただ耐え忍ぶ、拳を握り締め唇を噛み、彼らの侮辱に耐えた。

そして約束どおり、私の携帯電話の着信メロディはホークスの「いざゆけ無敵の若鷹軍団」に変更され、電話が鳴るたびにその屈辱のメロディを聞かされることになった。この十字架を踏むがごとき拷問は2週間続いた。

大学内で関西人の勢力が急速に縮み、逆に九州人優位が確立されるという暗黒時代が訪れたのはいうまでもない。

さて話を2006年の母の日にもどそう。


なんやかんやで当日の応援軍団は総勢11人である。

日本人      6人
シンガポール人  2人
台湾人      1人
韓国人      1人
Australian        1人


男4人 女7人
となかなかインターナショナルな構成。これぞAPUである。

座席は、ビッグライフというドーム外野席後方に設置されたスポーツバーからの観戦。席は発売直後に完売したので、立ち見である。値段は1000円。手数料や郵送料をあわせると1400円になる。それでも安い。

ビッグライフはドーム最後方にあり、ガラスを通じて試合観戦。ガラス一枚分ナマの興奮はうすれるがそれは仕方ない。人気カードでありチケット確保でさえ大変だったのだから。

野球というのは悲しいかなグローバルなスポーツではないので国際学生にルールを説明するというのは毎度のご愛嬌。

一方には日本語で説明し、もう一方には英語で説明する。野球のルールというのはなかなか一発で理解してもらうのは難しいが、ある程度観戦できるくらいにはご理解いただけたものと思う。

阪神ファン特有のフレンドリーさがあいまって途中通りがかったおじさんが私達に黄色と黒の2色からなる名刺をくれた。

「心の底からタイガースを愛する男」と刻まれていた。それよりもそのおじさんのフレンドリーさ、うちとける早さにタイガース初体験のみんなは少々驚いてはいたが、いい体験になっただろう。

ちなみに甲子園における阪神ファンの応援というのは、福岡におけるそれとはレベルが違うということをあらかじめ記しておく。甲子園はまさに聖地である。

あそこで思いっきり応援する快感をみんなにも次は是非体感してもらいたい。彼らにとって未知の体感を経験してほしいと強く感じた。

しかし敵地YAHOOドームにあっても阪神ファンの存在感は圧倒的であり、全く新しい日本の一面を知ってもらうことができた。

いかに阪神ファンの、関西人の血潮が熱いものであるかといういうものを一緒に応援に巻き込んでいくことで直に体感していただけただろう。

阪神の攻撃のときは阪神ファンのテンションが最高潮であるのに対して、守備のときはみなテンション低くぽかーっと口をあけていたりする愛らしい一面も含めて。


試合は結果的に 

阪神 3-7 ソフトバンク

負けた。

阪神は何回もチャンスがあったのにもう一打がでない、拙攻で結局3点しかとれず、中盤で効率的に点をとったソフトバンクの勝利だった。

満塁から江草(阪神)が、三塁打、ホームランと集中打を浴びた。その一言につきる。

キャッチャーの浅井(阪神)が打席に入る前に私は
「浅井が売っても別にうれしくないで、期待もしてへんし」
などといっていたが、なんとその打席で浅井がホームランをかっとばした。

数秒前に言った言葉なぞ忘れて狂喜乱舞している姿をきっちり目撃されてしまった。
変わり身の早さも阪神ファンの特徴である(?)

ヒーローインタビューは 松田選手(ソフトバンク)。今日来ていただいた福岡の姉貴のフェイバリットプレイヤーである。まさに彼女にとっては奇跡。そこは松田選手に素直に拍手を贈りたい。

しかし今年阪神タイガースが九州に来るのもこれが最後、たったの3試合。次はおそらく来年だろう。日本シリーズで 阪神 対 ソフトバンク にならないかぎり。

阪神には、できればもっと九州における試合数を増やしてほしい。YAHOOドームでセリーグの試合なぞやってくれれば最高なのだが。

同志S と一緒にナマで見た阪神。次こそ勝つ。次は甲子園。アニキ次はたのみますぜ!ピッチャーはもちろん下柳で!今日流した心の涙はやがて星になり実を結ぶだろう。

世襲巨人ファンのY には次は「巨人対ソフトバンク」の日本シリーズでも見にこようぜ、と言われた。
そうなることはないだろうが、そうなった場合一体自分がどちらにつくのか。巨人サイドに私がたつことは絶対ありえない。かといって私がソフトバンクサイドにつくのか?それも想定しがたい。


それにしても阪神のハッピやジャージを着て福岡を闊歩できるのはいつになるのか。
首を長くして待つとしよう。

そして阪神ファンの増加を、国際的な面からプロパガンダする役割を忘れずにいたい。
目下の敵は イスンヨプ。あいつのせいで韓国人が巨人ファンに流れてしまっている。
阪神は リンウェイツ を筆頭に台湾にアピールしていくしかない。

人を :抽象的に考えるのか、具体的に思い浮かべるのか

ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をまだ半分しか読んでいないが、非常に濃い内容である。 高校生のとき読んだ「罪と罰」以来離れていたのが悔やまれる。

その中でも特別心にグサリと引っかかってしまったのが、

「人間を愛そう愛そうと全体を愛するほど、個人を、身近にいる人を憎んでしまう、耐えられなく疲れてしまう。」

というパラダイム。確かに、思い当たることはある。

抽象的な「人間全体」というものを想定してそれを愛してみるが、具体的な友人であったり、見知らぬ人であったりというものが愛せない。



これはまさに「経済学」そのものではないか、と私は思う。

経済学は「効率的な資源の配分」を通して、社会全体のWelfareを最大にすることを目的にしている。全体最適を果たそうということだ。

経済学は「均衡」(Equiriblium)というなんとも不可思議なポイントを想定して考える。

これは需要(Demand)と供給(Supply)がちょうど交わり、資源の消費配分が最大効率で行われる点である。

その「均衡」においては生産者には利益も損失もでない、プラスマイナスゼロである。たとえ一円でも値段をあげれば商品はまったく売れなくなる。Vice versa、もし値段を一円でも下げれば(下げることができるなら)世界中全ての顧客が自分の商品を買う。

経済学が目指すのは、特にNeo classical Economistが目指すのはこの「均衡」である。そこにおいては最適な資源配分を妨げるものは社会全体の足を引っ張るものとして敵視される。

例えば、 
「日本企業が自社開発した技術をブラックボックス化して利益をあげている」
とすれば、
「独占するんじゃない、全世界の企業にそれを開放してスケールメリットを追及して世界全体のWelfareの向上に役立てろ」と言うのである。

採算があわなくなるまだキャベツを作りすぎた農家に対しては
「無駄な資源を浪費するな、なぜその浪費したぶんの資源をほかのもっと生産的なものに使用して人類全体のWelfareを高めようとしないのだ」
と諭す。

社会全体としての便益を優先したがために、個々人が不当な利益をむさぼるのが許せなくなってしまう。

もちろんこれは一例にすぎず、経済学以外の分野においては全体を愛することが、具体的な個々人を愛するということにつながる、そのようなことも起こっているかもしれない。



逆はどうだろうか。 具体→抽象。 具体的な個々人を思い浮かべるところから始め、人間全体を愛するようになる、ということは。

常々考えてきたことだが、自由人@高橋歩は
「自分の女を幸せにできないで、社会全体を幸せにできるわけがない。社会というのは各個人、家庭が集まってできているものなのだ。自分の家庭、友人、身近な人を幸せにすることが第一だ、それが社会をよくしていくのだ」

と常々語っている。的を射た意見である。
社会全体というのは、全く抽象的で偶像崇拝的であるのに対し、
高橋歩のいう社会というのは個人個人が集まってできているという具体性を包含した温かいものなのだ。

しかし、本当にそうなのか。この高橋歩の仮説がまったく当てはまるわけでもないだろう。もちろん、高橋歩の仮説が「具体→抽象」という流れを完璧に代表しているわけでもないだろう。家族を犠牲にしてまでも社会に大きく貢献した人もいるだろう。



「抽象→具体」アプローチでは、全体を愛すればこそ、個々人の足を引っ張る行為に我慢ならなくなってしまう。
究極的には、顔の見えない全体のために、顔の見える身近な人を消去するとこにつながりかねない。

それは労働者階級による社会を実現するためにはブルジョワ階級というものは消えなければいけないという社会主義に見ることができる。社会全体の利益を追求するために、ブルジョワ階級とみなされた人たちが殺戮されたのである。
もちろん今の日本にもないとはいえない、イラクにおいて日本人が拉致されたとき「自己責任だ、日本全体に迷惑をかけるくらいなら数人の命など軽いものだ」と考えた人は多かっただろう。

それがまったく間違った考え方であると断定はしない。明確な答えはない。しかし少し本題から離れてしまったので、本題に戻ろう。
私達は、あるところでは「抽象→具体」アプローチを使い、またあるところでは「具体→抽象」アプローチに寄っていると思われる。両者を無意識に使い分けている。


ところで、私は高橋歩の意見のほうに傾いてしまいそうなのである。
しかし高橋歩の意見でさえ、私達は打ち破っていかなければならない。もっともっと突き詰めて考えていかなければならない。

人類を抽象的に考えるか、それとも具体的に思い浮かべるか、どっちがいいのか、などとそんな単純なことではない。

両者ともより細部にフォーカスして分析していかねばならないだろう。一つ一つ矛盾する点を挙げていく、執拗に問い詰めていく、そのような弁証法を積み重ねていけば、よりクリアな視界が得られるかもしれない、もしくはまったくわからなくなっていくかもしれない。

いずれにせよ、これからの人生、私の頭の中で長い間渦巻くトピックになっていくであろうことは間違いない。

「カラマーゾフの兄弟」においてはこの問いですら小説を構成する一部分に過ぎず、他にもあまたの人間の矛盾を突いた部分がある。まったく怪物である。

もっと泥臭くならないとね。。。

プレゼンテーションのリハーサル私はすごくめんどくさがる。
正確にいうと、メンバーがリハーサルするのを手伝うのは大好きだが、私自身が練習したくないのである。

なぜかというと、私はプレゼンにおいて、「アドリブ」にクラスとインタラクティブする人であり、練習してしまうと柔軟さがなくなってしまうと恐れているからだ。

ある意味ぶっつけ本番の必死さによって聴衆に訴えようという算段でもある。ぶっつけで開き直ってしまうと意外とうまくいくものだ。

もちろん事前準備はしている。しかしそれは言うべきことをしっかり頭に入れておくことであり、どのような話し方をするのかは本番になって聴衆を観察してみないとわからない。

完璧に準備しすぎてしまうと、本番中ちょっと間違っただけでパニックに陥ってしまう。おおまかな流れだけ決めて、あとは自分の口から出てくる言葉に流れをまかせる。


しかし、これには少々欠点がある。

自分があまり入れ込んでいないプレゼンテーションの場合、モチベーションの低さが出てしまい、良好なパフォーマンスをあげられないのだ。特にプレッシャーもないのですらすらと話せるが、熱意がないのである。

大学の授業で生徒がするプレゼンというのははっきり言って誰も聞いていない。それをいかにインパクトを与えて引き込むか、熱意に裏付けられた腕力が必要だが、その腕力を使わずに終わってしまいがちなのである。

私は、モチベーションの低いプレゼンこそ練習に励むべきなのだ。熱意のなさを、練習によってカバーすべきだ。泥臭く、泥臭く、密かに練習すべきなのだ。

プレゼンというのは聴衆の時間を割いて聞いてもらっているわけであり、エンターティンメントである。 苦痛を与えるか、知的好奇心を呼び起こすか。

ただし、プレゼンにおいて一番重要なのは 質疑応答 の時間であると私は考える。
聴衆からどのような質問が飛び、それを議論し、一緒に考えることを聴衆と楽しむこと。 問う、答える、問う、答える。 これこそ学問の醍醐味ではないだろうか。

聴衆は敵ではなく味方なのであり、意地悪な質問がとんできたとしてもそれは、さらなる高みに至るための障害ととらえ(弁証法である)、聴衆も巻き込んでそれをクリアしていく。この悦びをシェアすることができれば成功といえるだろう。その時点では聴衆はすでにプレゼンテーターと真剣にトピックについて考えている。

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約束する。ものすごいコンテンツにめぐるあうことを。

遊ばないと学べない

5月16・17日に京都から友達が尋ねてくることになった。
卒論のテーマきめとかプレゼンとか期末レポート・テストなどで忙しいこんなときにこなくても、、、と思うことなきにしもあらずだが、やはり大歓迎である。

いつ遊ぶから、いつまでにこれこれしかじかを終えとかなあかん、という予定が経ち、モチベーションアップとあいまって能率が上がる。

やはり勉強だけ、仕事だけ、それだけやっていてはもたない。逆に遊びだけやっていても楽しくないのだ、私は。

私の能率が一番上がるときは、もちろん締め切り直前の血がいまにも逆流しそうな時間帯、人生である意味もっともエキサイティングな瞬間であり、その興奮を味わうためにあえて締め切り直前までアクションを起こさないこともよくある。脳内に出る大量のエンドルフィン、アドリブなクリエイティブな、そうある意味JAZZ的なアイデアが浮かんでくるあの悦びである。

締め切り直前までアクションを起こさないといっても、それまでに頭の中ではいろいろ考えている。様々なアイデア・可能性を考えている、といってもまとまっているわけではない。考えるたびに結論など変わってしまうものなのでできるだけカオスのままで放置しておき、直前の追い込み期間にどのような化学反応が起こるのか見るのである。


しかし、それ以外にもうひとつ、能率が最大限に高まるとこがある。
それは、逃避行動をしているときである。別に関心のない授業でレポートを要求されたときのモチベーションの低さ、そして起こる逃避行動。
あるときは部屋を掃除することであり、 またあるときは酒をあおること。しかしぼくの最大の逃避行動とは読書である。

逃避行動で「おまえこんなんしててええんか?」という罪悪感にさいなまれながら集中して全く無関係な分野の書を読む。

その逃避行動中に得たものが、ほかの分野ですごく活きてくる。

私の人生は 逃避で得たものによって今までかたちづくられてきたといっても過言ではない。

ということで、私は今、ドフトエスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいるのでございます。

ええ、ええ、わかっていますとも、この作品がそんな短時間で読み終えられるようなものっではないことを、授業の課題を放棄しなければならない事態に、後悔することになりうる危険性を。
しかしこればっかりはやめられないんですよ旦那、もちろんひとつひとつの台詞が長すぎると、確かにこんなに一気にしゃべる人間いないと噂されてもいますがドフトエスキーの作品は病みつきになるもでして、へぇ。この文章を読んでいるとほかの文を読むのがときに情けなく感じるほどのもんです、訳してこれなんですから、いったい原文でよんだときはどのようなエクスタシーなのか想像するのもはばかられるくらいなのかと。次の人生はいったいぜんたい原文で読んでみたいもんですな是非

Compriance, compriance, COMPRIANCE!!

TOYOTA 北米の日本人社長が、日本人従業員から訴えれているという。


TOYOTAはいまや世界最強の車メーカーであり、車で戦う限りにおいては問題は少ない。


そうなると一番の問題はつまらないことで足を引っ張られないよう気をつけること。すなわち


コンプライアンスを遵守しておくことである。


  なぜならコンプライアンスを逸脱した行為によって株価は大きな悪影響を受けてしまう。世界中の機関投資家がToyotaの株を買っているのにまったくもうしわけないことだ。もし株主代表訴訟でもおきようものなら戦略の実行に集中できるはずもなく、達成できていたはずのものが達成できなくなってしまいうる。


「セクシャルハラスメントは絶対に容認しない」


と強い方針を打ち出してたTOYOTAでさえこのようなことになるのだ。確率的にある程度のセクハラ事件が起こるのは避けられないものであるが、それを容認しないのが世間でありTOYOTAがこの事件にどのように対応するのか。


TOYOTAの、会社としての格の違いの見せ所である。


このような人為的ミスに対してどのような事前準備・対処法を想定していたか、もしくはこのようなミスさえ成長戦略の一角として織り込まれているのか。


「女性にとって働きにくい会社」


というのは致命的な弱点である。胸を張ってビジネスなどできない、女性を活用する能力のない無能なマネジャーばかりであり、ほめられる点なぞひとつも無い。


「上司からのコンプライアンスに違反するような行為を指示されたときに断れる会社」


これもこれから重要になってくる要素である。部下が断れないとなると、スキャンダルは起こり放題だ。会社だけでなく、その部下の将来のキャリアまで刈り取ってしまう。コンプライアンスに対する認識が会社の中に浸透しているかどうか。 


世間から 「あんな会社べつになくても困らないよね」


といわれてしまってからでは遅いのだ。残業代を支給しない会社、従業員の保険を払わない会社、ゼニ金儲け第一主義の会社、などの会社側の過失ばかりでなく、


その会社が 「社会をよくするためになんら貢献していない会社」とみなされてしまっても終わりである。


隠せばいいというものではない。そのような小手先のテクニックでごまかそうという誠意のない会社はまったくコンプライアンスという言葉の重みを理解していない。


日本においてこれから、年金基金、ミューチャルファンド、ヘッジファンドなどの機関投資家が増えるのは間違いなく、株主に対するディスクロージャー、責任は増すことはあれ減ることはない。この大きな潮流は誰にも止められない。「物言う株主」が企業のCEOをすげかえるということも常態化してくるだろう。


そういったケースにおいて、過去の過ちをいつまでも隠しとおせるのか、取締役達は任期後も一定期間は訴えられてしまう。隠したものがバレてしまうのを待つよりも、むしろ悪い情報ほど積極的に開示していく攻めの先進的な姿勢が求められている。


今回のトヨタの件が、日本の経営者にコンプライアンスの重要性を再認識させることになればよいが。。。


 

No escape? We wiil be chased by serch engine even after 10 years from now..

I've found out interesting reading that worrying about how internet can affect your future badly.
I've reconfirmed the dangerousness of the internet again.

Here is the link to the article.
http://news.com.com/2010-7348_3-6062106.html

he said...

Once you air your dirty digital laundry on the public Internet, you can't take it down and fold it and put it away. It is out there forever, accessible by search engines and completely beyond your control.

On the public Internet, danger is always only a few clicks away.


That's the very important point we must note, many people, however, still doesn't notice.

The freedom of speach should be protected, of cource. But it's not contradictory to protect the those who has little IT literacy including your friends, familiy and yourself.

The question here is whether you can take a responsibility to what you've done.

The benefit of the internet are well-known and it can enhance our possibility. Talking about internet have been a HOT topic for long time. Nevertheless, we still doesn't carefully examine the risk of using it. Actually everybody think that internet hurt somebody, they know. Just they haven't realized that they are already included in it.

畢竟人間はひとりである、新入生を見て感じ入る。

2006年も、はや5月になり新緑の季節になった。
桜の花はすでに落ち、ういういしさが許された時期は去った。生命を爆発させる夏が少しずつ近づいてきている。

私の大学においても、4月入学の新入生があふれている現状であり非常にわかわかしいキャンパスの雰囲気である。入学から1ヶ月経た今、一年生の間においてはもうすでにグループ化がかなりの程度進行していることが見て取れる。

心の許せる仲間をつくり、水を得た魚のようにいきいきとしている者も少なくないだろう。
心を許せる、助け合える仲間であると同時に切磋琢磨するよきライバルとしての友を得る、ということは人生において非常に重要なことであり、魂が救われるものだ。

しかし古よりさまざまなところで言われてきたことに

「悪い友人をつくらない」

ということがある。私はこれを前途洋洋の新入生に送ることばに送りたい。
悪い友人という言葉はさまざまに解釈されているが、ここで意味するのは。


1. 堕落させようと誘ってくる者
2. テイクばかり求めて、まったくGiveする気のない者
3. 弛緩しきってまったく緊張感のないつきあいを求めてくる者
4. おたがいの傷をなめあうような関係を求めてくる者

だいたいこのようにまとめられるように思う。共通するものは

相手に対する思いやりをもっていないということ。
友というものは、

「自分が困っているときに助けてくれる人」 だともいえる。

自分が波にのっている、成功しているというときはみんなちやほやしてくれるかもしれないが、それには「勝ち馬に乗って自分も得しよう」という感情を抱いて近づいてくる者も相当数含まれる。
そしていざ自分が困った状況、苦境に追い込まれたときにはまったく助けてくれない。

一緒に喜んでくれる友よりも、一緒に苦しみを理解してくれる友こそが本当に貴重な存在だといえる。 おそらく元ライブドア堀江社長は今それをひしひしと感じているのではないか。

しかし、ここに落とし穴がある。それはというと、自分も相手にただ甘えているだけではいけないのである。友であるからこそ緊張感と尊敬を抱いて接しなければいけない。
時にはきびしい言葉も言わねばならない。
短期的に相手に嫌われてもいい、それが相手のためになるのであれば。


逆に、あまりに耳障りのいい言葉ばかり並べる人は自分のことばかり考えている人である。
相手に嫌われたくないからこそ、甘い言葉ばかりささやく。
「自分を捨てないで、こっちを見て」
というのが本心である。
黒澤明監督の「七人の侍」においてこのような言葉がある。友との関係においてはこれは至言であろう。

「他人を守ってこそ自分を守れる。己のことばかり考える奴は、己を滅ぼす奴だ」



もちろん、この世の中自分の好きな人とばかり付き合っている、狭い殻に閉じこもっていてばかりではまわらない。気に入らない人とも付き合わなければならない。そのようなときに最低限お互いが不快にならないよう潤滑油の役目を果たすのがマナーである。
たとえ忌み嫌っていても相手は人間であり、一片の敬いを忘れてはいけない。そのような人の存在を認める器量の大きさが必要である。


自分の殻にとじこもらないこと。
殻をやぶる手助けをしてくれる友をもつこと。
この人とであれば、自分が艱難辛苦を共にしてもよいと思える友をもつこと。

これは新入生に限らない。
言うは易し、行うは難し。
かくいう私自身こそ強烈に自戒しなければならないことである。

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