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膝小僧360

Author:膝小僧360
座右の銘は「永遠の18歳」

105歳まで生涯現役でいます。。仕事においても遊びにおいても、あらゆる分野において若い者を若さで圧倒する、そんなアダルトチルドレンな105歳を目指しています。ただしこのまま計画通りいくと人生あと83年しかないのが悩み。

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人を :抽象的に考えるのか、具体的に思い浮かべるのか

ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をまだ半分しか読んでいないが、非常に濃い内容である。 高校生のとき読んだ「罪と罰」以来離れていたのが悔やまれる。

その中でも特別心にグサリと引っかかってしまったのが、

「人間を愛そう愛そうと全体を愛するほど、個人を、身近にいる人を憎んでしまう、耐えられなく疲れてしまう。」

というパラダイム。確かに、思い当たることはある。

抽象的な「人間全体」というものを想定してそれを愛してみるが、具体的な友人であったり、見知らぬ人であったりというものが愛せない。



これはまさに「経済学」そのものではないか、と私は思う。

経済学は「効率的な資源の配分」を通して、社会全体のWelfareを最大にすることを目的にしている。全体最適を果たそうということだ。

経済学は「均衡」(Equiriblium)というなんとも不可思議なポイントを想定して考える。

これは需要(Demand)と供給(Supply)がちょうど交わり、資源の消費配分が最大効率で行われる点である。

その「均衡」においては生産者には利益も損失もでない、プラスマイナスゼロである。たとえ一円でも値段をあげれば商品はまったく売れなくなる。Vice versa、もし値段を一円でも下げれば(下げることができるなら)世界中全ての顧客が自分の商品を買う。

経済学が目指すのは、特にNeo classical Economistが目指すのはこの「均衡」である。そこにおいては最適な資源配分を妨げるものは社会全体の足を引っ張るものとして敵視される。

例えば、 
「日本企業が自社開発した技術をブラックボックス化して利益をあげている」
とすれば、
「独占するんじゃない、全世界の企業にそれを開放してスケールメリットを追及して世界全体のWelfareの向上に役立てろ」と言うのである。

採算があわなくなるまだキャベツを作りすぎた農家に対しては
「無駄な資源を浪費するな、なぜその浪費したぶんの資源をほかのもっと生産的なものに使用して人類全体のWelfareを高めようとしないのだ」
と諭す。

社会全体としての便益を優先したがために、個々人が不当な利益をむさぼるのが許せなくなってしまう。

もちろんこれは一例にすぎず、経済学以外の分野においては全体を愛することが、具体的な個々人を愛するということにつながる、そのようなことも起こっているかもしれない。



逆はどうだろうか。 具体→抽象。 具体的な個々人を思い浮かべるところから始め、人間全体を愛するようになる、ということは。

常々考えてきたことだが、自由人@高橋歩は
「自分の女を幸せにできないで、社会全体を幸せにできるわけがない。社会というのは各個人、家庭が集まってできているものなのだ。自分の家庭、友人、身近な人を幸せにすることが第一だ、それが社会をよくしていくのだ」

と常々語っている。的を射た意見である。
社会全体というのは、全く抽象的で偶像崇拝的であるのに対し、
高橋歩のいう社会というのは個人個人が集まってできているという具体性を包含した温かいものなのだ。

しかし、本当にそうなのか。この高橋歩の仮説がまったく当てはまるわけでもないだろう。もちろん、高橋歩の仮説が「具体→抽象」という流れを完璧に代表しているわけでもないだろう。家族を犠牲にしてまでも社会に大きく貢献した人もいるだろう。



「抽象→具体」アプローチでは、全体を愛すればこそ、個々人の足を引っ張る行為に我慢ならなくなってしまう。
究極的には、顔の見えない全体のために、顔の見える身近な人を消去するとこにつながりかねない。

それは労働者階級による社会を実現するためにはブルジョワ階級というものは消えなければいけないという社会主義に見ることができる。社会全体の利益を追求するために、ブルジョワ階級とみなされた人たちが殺戮されたのである。
もちろん今の日本にもないとはいえない、イラクにおいて日本人が拉致されたとき「自己責任だ、日本全体に迷惑をかけるくらいなら数人の命など軽いものだ」と考えた人は多かっただろう。

それがまったく間違った考え方であると断定はしない。明確な答えはない。しかし少し本題から離れてしまったので、本題に戻ろう。
私達は、あるところでは「抽象→具体」アプローチを使い、またあるところでは「具体→抽象」アプローチに寄っていると思われる。両者を無意識に使い分けている。


ところで、私は高橋歩の意見のほうに傾いてしまいそうなのである。
しかし高橋歩の意見でさえ、私達は打ち破っていかなければならない。もっともっと突き詰めて考えていかなければならない。

人類を抽象的に考えるか、それとも具体的に思い浮かべるか、どっちがいいのか、などとそんな単純なことではない。

両者ともより細部にフォーカスして分析していかねばならないだろう。一つ一つ矛盾する点を挙げていく、執拗に問い詰めていく、そのような弁証法を積み重ねていけば、よりクリアな視界が得られるかもしれない、もしくはまったくわからなくなっていくかもしれない。

いずれにせよ、これからの人生、私の頭の中で長い間渦巻くトピックになっていくであろうことは間違いない。

「カラマーゾフの兄弟」においてはこの問いですら小説を構成する一部分に過ぎず、他にもあまたの人間の矛盾を突いた部分がある。まったく怪物である。
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