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膝小僧360

Author:膝小僧360
座右の銘は「永遠の18歳」

105歳まで生涯現役でいます。。仕事においても遊びにおいても、あらゆる分野において若い者を若さで圧倒する、そんなアダルトチルドレンな105歳を目指しています。ただしこのまま計画通りいくと人生あと83年しかないのが悩み。

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人工物の圧迫感

非常に残念である。先日、とある面接の関係で、フェリーで0泊2日 大阪に行ってきた。

着いたのは朝6時である。
なんば で朝食をとり、窓から町並みを眺めてみる。
大分から大阪へ、久しぶりの大都会だが、私には

「都会というのは恐ろしいところだ」

という想いだけであった。

コンクリートの建物ばかり、景観を破壊し続ける看板群、薄暗い地下鉄、厚いのに同じようなスーツをまとった生気のない出勤姿のサラリーマン、、
そしてそのときスーツを着ていた私もその中のひとつなのである。

すべて眼にはいるものは人工のもの。人間を圧倒する自然は存在せず、コントロールされてしまっている。 朝なのになんと気がつまるのだろう。

心を清めてくれる、自然の美 というものがなく、心のバランスが危うい


低下していく一方の大阪経済。東京には大きく水を空けられ、名古屋にも追い上げれら、その重要度は下がり続けている。だからこうも閉塞感がただよっているのだろうか。まったくもって息が詰まる

誰も彼も自分のことしか考える余裕がなくなっているのではないだろうか。
そして ヒトは、ますます孤立化を深めてゆく。

清新なる山の空気、澄んだ川の流れ、大自然に抱かれた温泉、
壮大な自然の恵みがここにあればよいのに。

大阪には、様々な飲食店、便利な交通、娯楽大型商業施設などがある。しかしそれらがほんとうに私の人生にかけがえない彩りたりえるか、

ここは、都会は、安息の地ではなく闘いの地なのだ












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生と死、わたしを分け隔てるもの。

生や死といったものを考えれば考えるほど、幸せにはなれないだろう、と最近なんとなく感じる。そもそも哲学で幸せになる道理はない。

たしか芥川だったろうか、こう言ったというのは。


「どんなに考えてみても生きることの意味がわからないのです」




いま生きている私とはいったい何なのか、私とはいったい人間なのか。

ただ、プログラムされたコード、WindowsのOSに過ぎないのではないか。
人間という種を存続させるために、肉を動かすために人為的に作られたコード、それが私ではないのか。人間という種族を維持させるための使い捨ての奴隷。

私が無ければ、人間という種族が機能しないというわけではない。私でなければいけないという必然性はなく、”とりあえず”のコードのひとつが私である。

人間という種族を生きながらえさせるための歯車のひとつであればそれでよいわけだ。
あぁ、私は絶望的なまでに人間から離れられないのだ。

なぜ私がチンパンジーであってはいけないのか、フクロウは、私が、鉄でも水素原子でも、クォークでも、木でも車でもいいではないか、

なぜ人間として、食べて、寝て、生きねばならない。実際の生活ではこのような問いは押し殺して生きていく。


決められないものを、無理に決める必要はない。

不条理なるかな、それが人生だろう。




それにしても、2日続けて鶴見のJoyfulで夜を明かしている。2日とも同じ席に座り、開き直って教科書をひろげている。おそらく今夜もJoyfulで夜を明かすだろう。3日連続になりそうだ。。

鶴見の場合、ほとんど客もおらず静かであり、気にいっている。

5時間や8時間もいると、自分が空気にでもなったような、存在感の消失にとらわれる。なぜかじょじょに人恋しさがつのってくる。誰でもいい、何の話題でもいい、話し相手が、語り合いたい。

私がいまここに存在しているという実感がほしい。一人ぼっちの孤独さを、スキマを埋めてほしい。自然界は真空状態を嫌う、それと同じく私も空白のプレッシャーに耐えられない



「このまま今日、もしかしたら私は誰とも話さずに終わるかも」


という予感はすなわち


「今日誰からも相手にされない、知覚されない、世界の端っこでひとりぼっち」


という恐怖感につながる。
この予感と、私を訪れつつある恐怖により、生きている意味を失いそうになる。ただ灰色の未来しか想い浮かばない

過ぎたことはかまわないのだ。
一日の終わりに、「そういえば私、今日一歩も外に出ていない、ケータイもメールも会話も誰一人としてコミュニケーションしていないなぁ。。」と気づいたとしても、それはもう私に絶望をもたらしはしない。

もう過ぎた過去であり、それはもう来ないのだから、


ただ灰色の未来を恐れるのみである。


私の今までの人生はある程度、Colorfulなものだったかもしれない、
しかし、いつ、灰色の人生に陥ってしまうかもしれない。
スヴィドロガイノフの絶望が私を追い詰める。



ドアも窓も、家具もまったく何もない、
出口のない密閉された真っ白な四角い部屋。
ただ部屋の片隅に蜘蛛の巣が張っている。
そこにただ私一人のみ在る。
それが、「永遠」だとしたら。



それが、その「永遠」が私の人生の、いや、意識の最終到達点であるとしたら。。。

私は「生まれてきたこと」を後悔するのだろうか、
「存在していること」を後悔するのであろうか、おそらく。

一刻も早く、この「永遠」から脱け出したい、
意識も記憶も何もかも全て消え去ってしまいたい。
自我を、わたしを他のなにかと区別している何かを、
その境界が完全に無くなり、私が私でなくなるとき。
私も他も何もかも消え去るとき、


私を、、還してくれないか。。。

死 とはなにか

人間 だれしも 死について考える。

人生を考える出発点というのは「死」に始まる

そもそも死がなければ生もない。
小さい頃から、生と死の境界に興味があった。未だに自分が死ぬのかどうか確信がもてないでいる。幸か不幸か死から遠い人生を送ってきた。

手がかりをつかみたくて、小動物や虫などを分解しながら「いつ死ぬか、いつ死ぬか」と実験している。しかし他の生物の生殺与奪の権利を行使したとしても、実際に殺してみても、死ぬときの彼らの気持ちがわからないのである。
ただ単に殺し足りない、経験が足りないのか、それとも違うアプローチによらなければならないのかはわからない。

しかし絶望的なのは、私、男 は生を与えることのできない生物なのである。
産む という経験ができない。そこに人生を理解しようとするうえで絶望的な壁がある。感覚として、生を作り出す感覚は絶対に得られない、ただ殺すのみが男である。


議論が枝葉に入ったが、人生を考える出発点がなぜ死にあるのか。

チベットの死者の書 によれば我々は死後49日くらいで次の生物に生まれ変わるという。たとえ死んでも、あっという間に次の人生である。

エジプトの死者の書 によれば、死後の世界というのはなかなか現世とそっくりの世界である。地獄にはいってしまった場合は悲惨だが、天国のほうもいろいろな種類があり、極楽のようなところではこの世とほぼ同じような生活ができるという。

キリスト教においては、最後の審判がある。

イスラム教においても、最後の審判がある。私が興味を惹かれたのは、「天国では美女に囲まれて暮らすことが出来、彼女達は永遠に処女である」といったことがコーランに書かれていた。

仏教においては、 輪廻転生があったり、解脱があったり、56億年後とかそのあたりに みんな目覚めてなにか起こったりするらしいが、仏教は多くの宗派があり、混乱している。私の勉強不足である。


死というのは、自分の生について考える出発点である。

今回の人生で善行を積めば、天国に行ける、悪ければ地獄に落ちる。という前提がある場合には、できるだけ来世につながる善行を積もうというインセンティブが生まれる。

死んでたった49日後に生まれ変わるとなった場合には、死んでいる期間にどううまく次の胎をみつけるか、生きている間に勉強することになるだろう。こう短いサイクルで輪廻が繰り返される場合、一回一回の生の価値は相対的に低く評価されるのではないだろうか。

輪廻を繰り返すこと自体、苦しみであり、解脱を目指す。となった場合には、人生の目標はニルヴァーナにいたること。ブッダになることである。インドのサドゥーのような生き方になるだろう。欲に惑わされず、ただ犀のようにひとり歩む、力強く歩む。

死後の世界に、現世の財産をもっていくことのできるエジプトの死者の書のようなケースにおいては、死後の世界に備えた蓄え・準備が重要になる。

アッラーなどによって裁かれる、全てお見通しされてしまう場合においては、アッラーのためになんでもします、ということになる。絶対的帰依が求められるだろう。

もちろん、死後の世界に対する認識が同じ場合でも、それに対し異なる考え方をもつ場合はあるだろう。しかし、やはり死を起点に考えている。


しかし、いまや自称無宗教者が跋扈する時代である。


無宗教者の多くは、唯物論者ではなかろうか。この世は全て物質でできていて、死んだら別になにもない、ただ身体の構成物質が地球に還るだけである、とする考えである。

そこには死後の世界は存在しない。ただこの今、生きている瞬間がある。
この出発点にたったとき、人間はどのような価値観をもつのだろうか。

正確な引用ではないが、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」のなかでこう書いている


神がいなければなにをやっても赦される


人間が他人に施したり、赦したり、といった善行を積むのは他人を愛しているのではなく、自分を愛しているためである。来世のためにやっていることなのである、という。
しかし、もし来世がないのであれば、わざわざ善行を積む必要はなくなってしまい、何をやっても許される、と。

もはや来世のためにあくせく努力する必要などないのである。

死はただ物質的なものに過ぎない。  

そのような前提にたつと、ますます自分のことだけ考えていればいい。一回こっきりの人生、やりたいことをやりたい、となる。他人につくしても来世があるわけでもなし、報われない。GiveではなくTakeがなにより先である。

「囚人のジレンマ」というセオリーがある。とらえられた囚人は双方とも自白し、最悪の結果に陥らざるをえない、ということを示唆している。解決法はなんだろうか、お互いに話す機会を与えることだろうか、そうではない。 解決策はこれを長期的な問題にすることである。たった一回の選択ではなく、何回にもわけて自白・黙秘を選択する機会を与えるのだ。そうするとお互いに協力するようになる。

A) これからの人生でもう会うことは無いな、と思った人。
B) これからの人生、まだまだ付き合いがある、と思った人。
どちらを大切にするか。答えは明白に B である。

一回きりの人生なので、一生懸命生きよう、と考える人もいるだろう。
しかし、トータルでみると、一回きりの人生だからすき放題やってやろう、と考える人間が激増するのは避けられない。


宗教から離れる、開放される、ということは今まで人類が築き上げてきた生きるための論理がまったくひっくりかえってしまうということである。
今まで正しかったことが、まったくナンセンスになってしまう。
今まで悪であったことが、善になる。

無宗教者は自分でなんでも決める、自分の神は自分である。自分がなにをしようと、どのような思想を展開しようとも神からとがめられることはない。 
つまり自由を手に入れる、ということである。少なくとも思想的な自由は手に入る。
しかし人間は、羊の群れである。そのような自由に耐えられない。群れから離れた羊はもろい。自分を自分の支配者にできるのはブッダくらい強靭な人だけである。

しかし人間には、生きる理由 が必要である。無宗教の人間はそれを自分で探さねばならない。

自分はなにのために生きている、なにのためなら死ねる。

などと常に自分を何かに帰依しようとする。まったくかたにとらわれずにすむのに、自分から進んで自由を放棄する。

はぐれた羊のように、ビクビクしながら答えを探し続ける。


死とは私にとって、なになのか。
ワタシを構成しているのはなになのか、どこからがワタシなのか。
何のために今こうして生きているのか。

大分を好きになり始めている、本格的に


ここ数ヶ月のことであるが、大分県に住んでいるということに感謝する日々である。

経済のサイズ的には大分は矮小である。九州においては「福岡ー熊本ー鹿児島」を結ぶラインがメインの経済圏であって、他の県(大分、宮崎、長崎、佐賀)というのはまったく重要ではない、経済的には。

そもそも福岡から大分駅までは約2時間45分かかる。
ちなみに福岡から大阪まで2時間45分くらいだろう。
地理的には近くとも、アクセス・心理的には大分県はまったく隔離されている。

しかしここには大自然がある。圧倒的なパワーを持って迫ってくる。

まず温泉を避けることはできない。
地中から湧き出る湯の泉質は湧き出るポイントごとに違う。つるつるの湯、酸性の湯、硫黄の湯、泥湯、湯の花を多く含む湯、 

大自然から湧き出る液体に対し、生まれたままの姿で正々堂々挑む。
結果は皮膚が教えてくれる。

そして私はできるだけ温泉を飲用することにしている。舌は鋭敏であり、温泉の個性をフルに体感することができる。もちろん自己責任だが、ぜひトライしてみていただきたい。

そしてである。

落差85メートルの滝、落差60メートルでものすごく澄んだ水をほこる滝、滝すべりができる滝、 大分には泳げる多くの個性的な滝がある。

体を真っ赤に腫らし滝に打たれる痛みと快感。
自然に挑むその行為
痣もできるし、血も出る、傷もできる、しかしただ見るだけでなく 体で自然に挑む、
自分が生きていることを実感できる。

なにより 滝つぼ で泳ぐという行為は 私のような少年にとってはしゃがずにはいられない。

大分はこのように  に恵まれている。
ソーダのようにシュワシュワ炭酸の水が湧き出るのが大分であり、引用可能な水源が非常に多い。水に関して本当にすばらしい。

ほたるの里というところにおいては、シーズン中何百匹、何千匹というホタルが目前で舞うのを観察できる。神秘的な経験である。

適当にドライブをしているときでさえ、絶景の中を走るのは快感である。
山と川の調和が素晴らしい。

そして大分には、海 もある。

ときどき朝4時とか5時に家を出て、日の出観察スポットを探し、別府湾に上る朝日を一人で見ている。日の出というのは感動的なものだが、海から出てくる朝日は特にすばらしい。京都市にいては絶対見ることのできない光景である。

別府湾の海水はめちゃクリーンというわけにはいかないが、それでも海を眺められるということ、家から徒歩10分で海に入れるという豊かさには変わりない。

私は今まであまり別府大分以外には行かなかったのだが、佐伯や久住、なども素晴らしいことにようやく気づいた。夜にながめることのできる星空、澄んだ空気、この感動が人生を豊かにするに違いない。

できればもっと若い、感受性の鋭い時代にこの感動を味わいたかった。



ビジネスをするのであれば大都会である。しかし人間が成長していく過程においては、働き始めるまでの、若いうちは大自然に囲まれた環境で育つのが良いと考える。

オトナになってからでは、大自然の素晴らしさをフルに吸収するのは無理である、遅すぎる。ガキの頃に体験した感動こそが人生をつくる。

オシャレなショッピングエリアや、繁華街、なんでもある都会で暮らすのも悪くないが、大自然に遊んでもらうほうが何倍も楽しい経験だと私は確信している。

人生いろいろあるかもしれないが、つらいときに想い起こす、心のなかのオアシスに大分県の大自然が加わったことは喜ばしいことだ。

思えば大分県の良さを分かり始めたのは、温泉めぐりをはじめてからである。なにもないと思っていた大分県だが、実は非常に恵まれた地域だとわかったのだ。自分から探さねば絶対に見つけられない感動があった。
ただ漠然とそこに澄んでいるだけでは、たとえ地元の人であっても、案外みのまわりのことを知らないものだ。灯台もと暗し

いつでもいける、ところには行かないものだ。

「なにしたらええねん」と大分に来て嘆いている人たちにどうにかこの感動をつたえられないものか、と思っている。

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