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膝小僧360

Author:膝小僧360
座右の銘は「永遠の18歳」

105歳まで生涯現役でいます。。仕事においても遊びにおいても、あらゆる分野において若い者を若さで圧倒する、そんなアダルトチルドレンな105歳を目指しています。ただしこのまま計画通りいくと人生あと83年しかないのが悩み。

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死 とはなにか

人間 だれしも 死について考える。

人生を考える出発点というのは「死」に始まる

そもそも死がなければ生もない。
小さい頃から、生と死の境界に興味があった。未だに自分が死ぬのかどうか確信がもてないでいる。幸か不幸か死から遠い人生を送ってきた。

手がかりをつかみたくて、小動物や虫などを分解しながら「いつ死ぬか、いつ死ぬか」と実験している。しかし他の生物の生殺与奪の権利を行使したとしても、実際に殺してみても、死ぬときの彼らの気持ちがわからないのである。
ただ単に殺し足りない、経験が足りないのか、それとも違うアプローチによらなければならないのかはわからない。

しかし絶望的なのは、私、男 は生を与えることのできない生物なのである。
産む という経験ができない。そこに人生を理解しようとするうえで絶望的な壁がある。感覚として、生を作り出す感覚は絶対に得られない、ただ殺すのみが男である。


議論が枝葉に入ったが、人生を考える出発点がなぜ死にあるのか。

チベットの死者の書 によれば我々は死後49日くらいで次の生物に生まれ変わるという。たとえ死んでも、あっという間に次の人生である。

エジプトの死者の書 によれば、死後の世界というのはなかなか現世とそっくりの世界である。地獄にはいってしまった場合は悲惨だが、天国のほうもいろいろな種類があり、極楽のようなところではこの世とほぼ同じような生活ができるという。

キリスト教においては、最後の審判がある。

イスラム教においても、最後の審判がある。私が興味を惹かれたのは、「天国では美女に囲まれて暮らすことが出来、彼女達は永遠に処女である」といったことがコーランに書かれていた。

仏教においては、 輪廻転生があったり、解脱があったり、56億年後とかそのあたりに みんな目覚めてなにか起こったりするらしいが、仏教は多くの宗派があり、混乱している。私の勉強不足である。


死というのは、自分の生について考える出発点である。

今回の人生で善行を積めば、天国に行ける、悪ければ地獄に落ちる。という前提がある場合には、できるだけ来世につながる善行を積もうというインセンティブが生まれる。

死んでたった49日後に生まれ変わるとなった場合には、死んでいる期間にどううまく次の胎をみつけるか、生きている間に勉強することになるだろう。こう短いサイクルで輪廻が繰り返される場合、一回一回の生の価値は相対的に低く評価されるのではないだろうか。

輪廻を繰り返すこと自体、苦しみであり、解脱を目指す。となった場合には、人生の目標はニルヴァーナにいたること。ブッダになることである。インドのサドゥーのような生き方になるだろう。欲に惑わされず、ただ犀のようにひとり歩む、力強く歩む。

死後の世界に、現世の財産をもっていくことのできるエジプトの死者の書のようなケースにおいては、死後の世界に備えた蓄え・準備が重要になる。

アッラーなどによって裁かれる、全てお見通しされてしまう場合においては、アッラーのためになんでもします、ということになる。絶対的帰依が求められるだろう。

もちろん、死後の世界に対する認識が同じ場合でも、それに対し異なる考え方をもつ場合はあるだろう。しかし、やはり死を起点に考えている。


しかし、いまや自称無宗教者が跋扈する時代である。


無宗教者の多くは、唯物論者ではなかろうか。この世は全て物質でできていて、死んだら別になにもない、ただ身体の構成物質が地球に還るだけである、とする考えである。

そこには死後の世界は存在しない。ただこの今、生きている瞬間がある。
この出発点にたったとき、人間はどのような価値観をもつのだろうか。

正確な引用ではないが、ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」のなかでこう書いている


神がいなければなにをやっても赦される


人間が他人に施したり、赦したり、といった善行を積むのは他人を愛しているのではなく、自分を愛しているためである。来世のためにやっていることなのである、という。
しかし、もし来世がないのであれば、わざわざ善行を積む必要はなくなってしまい、何をやっても許される、と。

もはや来世のためにあくせく努力する必要などないのである。

死はただ物質的なものに過ぎない。  

そのような前提にたつと、ますます自分のことだけ考えていればいい。一回こっきりの人生、やりたいことをやりたい、となる。他人につくしても来世があるわけでもなし、報われない。GiveではなくTakeがなにより先である。

「囚人のジレンマ」というセオリーがある。とらえられた囚人は双方とも自白し、最悪の結果に陥らざるをえない、ということを示唆している。解決法はなんだろうか、お互いに話す機会を与えることだろうか、そうではない。 解決策はこれを長期的な問題にすることである。たった一回の選択ではなく、何回にもわけて自白・黙秘を選択する機会を与えるのだ。そうするとお互いに協力するようになる。

A) これからの人生でもう会うことは無いな、と思った人。
B) これからの人生、まだまだ付き合いがある、と思った人。
どちらを大切にするか。答えは明白に B である。

一回きりの人生なので、一生懸命生きよう、と考える人もいるだろう。
しかし、トータルでみると、一回きりの人生だからすき放題やってやろう、と考える人間が激増するのは避けられない。


宗教から離れる、開放される、ということは今まで人類が築き上げてきた生きるための論理がまったくひっくりかえってしまうということである。
今まで正しかったことが、まったくナンセンスになってしまう。
今まで悪であったことが、善になる。

無宗教者は自分でなんでも決める、自分の神は自分である。自分がなにをしようと、どのような思想を展開しようとも神からとがめられることはない。 
つまり自由を手に入れる、ということである。少なくとも思想的な自由は手に入る。
しかし人間は、羊の群れである。そのような自由に耐えられない。群れから離れた羊はもろい。自分を自分の支配者にできるのはブッダくらい強靭な人だけである。

しかし人間には、生きる理由 が必要である。無宗教の人間はそれを自分で探さねばならない。

自分はなにのために生きている、なにのためなら死ねる。

などと常に自分を何かに帰依しようとする。まったくかたにとらわれずにすむのに、自分から進んで自由を放棄する。

はぐれた羊のように、ビクビクしながら答えを探し続ける。


死とは私にとって、なになのか。
ワタシを構成しているのはなになのか、どこからがワタシなのか。
何のために今こうして生きているのか。
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