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膝小僧360

Author:膝小僧360
座右の銘は「永遠の18歳」

105歳まで生涯現役でいます。。仕事においても遊びにおいても、あらゆる分野において若い者を若さで圧倒する、そんなアダルトチルドレンな105歳を目指しています。ただしこのまま計画通りいくと人生あと83年しかないのが悩み。

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死に場所を得る、とは何か。

愚僧でも、ときどき考えることがある。

幸せとは何か。

それぞれの人によってその定義は異なる、というのは定番の議論だが、それでは進歩がない。
なにかGoodなAnswerはないものか。なにかあるごとに考えるのが人間である。
今日はこのような結論を得た。

人間は死に場所をみつけたときが一幸せ  といえる。

ドラマとかそういうもので説明を試みると、、、

「いまあいにいきます」
竹内結子がまぶしいこの映画において、ミオが自分の死をわかっていながらその道を選んだ、腹をくくった女の強さ・美しさ。ミオは幸せであった、と一般には解釈されているだろう。

たとえば日経新聞で連載されていた「愛の流刑地」においては、冬香は幸せの絶頂において死を願った、とかいう解釈もある。

アルマゲドンにおけるブルース・ウィルスもそのようなことを描いている。人類のために死ぬ。ある意味これ以上の幸せはない、とも解釈できなくはない。

鍵となるのは選択。

置かれた状況を受け入れるかどうかの選択。
もがくのか、それとも受け入れてしまうのか。

「俺は生きた!おおいに生きた!そしてここに死ぬ!
一片の後悔もない!あっぱれわが人生!」

仁王立ちであの世で旅立った弁慶はこう思ったかもしれない。
凡人には想像のおよびもしない領域である。

しかし、いつ死んだとしてもそれを自分自身が受容できるような人生を送っているかどうか、
それは幸せ度を測る一種のパラメーターになるといえるだろう。

蛇足であるが、故岡本太郎氏は幸せ反対論者であった。それは「幸せと思うのは、死が一番遠ざかったときなんだ。そんな幸せぼくはほしくないね」(引用不正確のおそれあり)
と考えていたらしいです。
もがいてもがいてもがいて、戦って戦って戦って、挑んで挑んで挑みつつけて、そういう人生こそが芸術だ。芸術はきれいであってはいけない。 ということでありましょうか。
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